青春シンコペーション


第1章 先生は金髪美少年!?(4)


アパートに帰った井倉は呆然とした。部屋には塵一つない。本当に何もかもなくなってしまっていた。もともとピアノ以外にはたいした物はなかったのだが、そのピアノもなくなってしまっている。
「そんな……」
がらんとした部屋に吹き込む隙間風に薄いカーテンがひらひらと揺れている。
「ピアノ……」
井倉はそう呟いた。他の何がなくなっても構わなかった。しかし、ピアノだけは彼の宝物だったのだ。音大に入った時、貯金を全部はたいて頭金にし、ローンで買ったグランドピアノ……。そのローンと大学の授業料を払うために彼は懸命にバイトをしていた。そのせいで練習時間が取れなくてジレンマに陥ることもあったが、何とかかんとかここまできたのだ。そして、今年はハンスの特別レッスンにも参加することができた。彼にとってはこれからだった。長い人生のスタート地点にようやく片足を乗せたところだったのだ。

「井倉さん」
背後から声がした。大家のおばさんだ。
「これは一体どういうことなんですか?」
井倉は顔を強張らせて訊いた。しかし、彼女は逆に文句を言った。
「どういうもこういうもないわよ! いきなり怖いお兄さん達が大勢やってきて、借金の方に持って行くって……。冗談じゃないわよ。真面目でいい子だと思ったから保証人なしでも貸してあげたのに……とんだ裏切りだわ! 溜まってる家賃はいらないから今日限り出てってちょうだい!」
「溜まってる家賃ってどういう……?」
井倉は驚いて訊いた。まるで心当たりがなかったからだ。
「2ヶ月前から引き落としができなくて……。様子を訊こうと思ってたところだったのよ。そこにほら、いきなりあんな人達がやってきて鍵を貸せなんて言われて……。もう生きた心地がしなかったわよ」
おばさんは震えるように言って顔を背けた。

――授業料が去年から未納になっていて……

大学の事務員の言葉を思い出した。
「ちょっと待ってください! これは何かの間違いです。僕、借金なんかしてないし、家賃だってちゃんと……」
井倉は必死に訴えた。が、彼女は聞く耳を持たなかった。
「すぐに出てって! 金輪際関わるのはご免よ!」
「そんな……!」
彼は途方にくれた。が、そこにいつまでもいるわけにもいかない。
「そうだ。通帳……」
部屋にあった書類ケースの引き出しに入れてあった。それもなくなっていた。
「警察に届けなきゃ……それに銀行に連絡して……」
井倉は携帯を取り出すとまず銀行のコールセンターに連絡しようと試みた。が、何故かうーともすーとも通じない。
「変だな。充電だって切れていないのに……」

彼は仕方がないので歩いて近くの支店に向かった。そして、キャッシュカードで残高を確認する。残高は0になっていた。
「馬鹿な……。カードは僕が持ってるのに……」
銀行に掛け合ったが話しにならなかった。一応紛失届けを出してくれと言われたものの、再発行された通帳は郵送するので住所を書いて欲しいというのだ。井倉は一旦今の住所を書き始めたものの、大家に言われたことを思い出して手を止めた。
「おばさん、怒っていたからな。もうあそこには帰れないかも……」
彼は仕方なく一度帰ると告げて銀行を出た。それから警察に寄って被害届を提出する。財布の中には千円札が3枚と242円の小銭があるだけ……。

「取り合えず、バイトの給料前借りできないか訊いてみよう」
彼はあまり気はすすまなかったがバイト先の店長に申し出た。が、店長は怒鳴った。
「何度前借りすれば気が済むんだ? おまえはクビだ!」
「どういうことです? 僕は今まで一度も前借りしたことなんて……」
「おまえがなくても、おまえの父親が借りてってんだろうが! しかも、あんな脅しまがいのことしやがって……。うちは客商売なんだ。あんな恐面の兄さん達に店の中うろつかれたんじゃ困るんだよ」
店長が一体何を言っているのか井倉には理解できなかった。しかし、彼の言い訳などまるで聞いてもらえず、彼はその店からも追い出されてしまった。
「親父が……」

井倉は公衆電話に向かって走った。そして、久しく連絡していなかった実家に電話を掛けた。しかし、電話の向こうでは空しいアナウンスが流れるだけ……。
――「お掛けになった電話番号は現在使われておりません」
「ふざけるな!」
井倉は受話器に向かって怒鳴りつけるとガチャリと乱暴に切った。
「一体どうなっちまってるんだよ!」
住む所もない。バイトも切られた。その上、大学も追い出されそうになって……。実家からも見捨てられた。
「これから一体どうすれば……」
取り合えず駅に向かう。週末からはゴールデンウィーク。皆、心なしかうきうきとした足取りで家路を急いでいた。井倉は実家に向かった。
――父親が来て前借りを……
店長の言葉が頭の中でぐるぐる回る。
「親父の奴! 問い詰めてやる」
電車賃は往復で860円も掛かってしまうが捕まえなければ話にならない。直接真相を確かめなければと胸に誓った。


しかし、いざ家に着いてみると、そこには、売り地と書かれた張り紙があるだけで家族の姿はなかった。
「どういうことだ?」
近所の人に尋ねると、ようやく内情が見えてきた。
「ああ、井倉さんとこ大変だったのよ。ほら、あんたのお父さんってば人がいいもんだから、また騙されて……会社はまた潰れるし、土地は取られるし、踏んだり蹴ったり……。果ては毎晩怖いお兄さん達がやってきていたたまれなくて夜逃げ同然に出てったの。優介君のとこには連絡なかったの?」
おばさんは気の毒がって訊いた。
「いえ、特には……。それで、連絡先はわかりますか?」
が、それは知らないと彼女は言った。
「そうですか。ありがとうございます」
井倉は頭を下げてそこを出た。

「ったく、親父の奴……。何度騙されれば気が済むんだ。そのせいで僕達がどれくらい迷惑を蒙ってると思ってる? 僕だって妹だって……それにお母さんだって、みんな……」
そもそもそのせいで彩香とも別れなければならなかったのだ。そして、今度は夢だ。ピアノは彼にとって夢そのものだった。それがあるから今までどんな辛いことがあっても耐えてこられた。そして、諦めないでいたら、彩香とも再開することができた。
「ピアノは僕の夢なのに……」
夜道を過ぎる車のヘッドライトがやけに眩しい。通りの看板のポスターに描かれた女性が何となく彼女に似ていると思った。
「彩香ちゃん……」
その微笑が自分に向けられているような気がした。そう思うと、彼にとって少しだけ慰めになった。

そのあと、何軒かの親戚に連絡を入れてみたが、誰も両親の行き先を知らなかった。それどころか、逆に怒鳴りつけられたり、もう縁を切っていると冷たく言われ電話を切られたりもした。それから、昔の友人を訪ねてもみた。が、一人目の友人の家は留守だった。連休なので旅行にでも出かけたのかもしれない。また、別の友人は引越していた。もう深夜になっていたが、彼は戻るしかなかった。


翌日、大学に行って事務員に事情を説明すると連休明けまで待ってくれると言った。それから、奨学金の申込のパンフレットもくれた。ただし、もう今年の分の申請期間は過ぎてしまっている。もし、来年以降必要なら参考にするようにとのことだった。連休の間は大学も閉鎖されているので入れない。井倉は仕方なく夜は漫画喫茶で過ごし、昼はバイト先やアパートを探した。が、保証人もなく、住所不定ではなかなか見つからない。所持金も尽きてきた。
「彩香ちゃんに……」
彼女に相談してみようかとも考えた。
――つけあがらないで
だが、記憶の中の彼女はとても相談できるような雰囲気ではなかった。一瞬、ハンスの顔も浮かんだ。が、井倉はすぐに否定した。いくらハンスがやさしそうに見えても彼は先生なのだ。自分とは距離があった。ましてや黒木に相談できる筈もなく、彼はただぼんやりと街の中をさまよっていた。


そして、ゴールデンウィーク明け、ハンスのレッスンは再開された。
「彩香さんのお父さん、ちゃんと謝りにきてくれました。」
レッスン室に彼女が入るとハンスが笑ってそう言った。
「でも、そのあとが大変だったんです。黒木さんが毎日やってきて僕と彼女の大切な愛の時間を奪っていくんです。それで、僕、ついにOKすることに決めました」
「まあ」
彩香は何と返答したらよいのかと迷っていた。ハンスには彼女がいるというのも初耳だった。外国人でルックスのいい彼に彼女がいたとしても当然といえば当然かもしれないが、何となく意外な気がしたのだ。それにしても、また、彼がこうしてレッスンを続けてくれることに感謝すべきなのかもしれないと思って、彼女はそれを口にし掛けた。が、その前にハンスが言った。
「ところで、井倉君はどうしましたか? 今日のレッスン来ていませんでしたけど……」
「さあ……」
そういえば、ここ数日、彼の姿を見ていなかった。今、ここに来た時も、いつもなら井倉のピアノが聞こえてくる筈なのにしんとしていた。そういうことだったのかと納得した。が、同時に彼女は不審に思った。

「そういえば連休のあとから、ずっと見ていませんけど……」
「そうですか。風邪でもひいたでしょうか。少し心配しています」
「わかりました。もし会ったら先生に連絡するようにと伝えます」
そう言って彼女ははっとした。何故、自分がそれを伝えなければならないのかと……。自分の方から井倉に声を掛けなければならないではないか。しかし、それはハンスに頼まれたからなのだ。自分の意思ではないのだからと無理やり自分を説得する。
「では、レッスンを始めましょうか」
「あ、はい」
彩香は井倉のことを頭から追い出そうとした。が、意識すればするほどそれは上手くいかなかった。が、それでも彼女は鮮やかな手つきで曲を弾き始めた。
「はい。C。合格です。来週は次の曲を練習してきてください」
ハンスが言った。
「あ、ありがとうございます」
彩香はそう答えたが、自分で今、何を弾いたのかさえよくわからなかった。
(どうして気になるの? あんな使い走りの役立たずのことが……どうして……)


それから更に数日後。彼女は妙な噂を聞いた。夜。誰もいない練習室からピアノの音が聞こえてくるとか、青白い顔をした井倉が廊下を歩いていたとか……。借金を作ってアパートを追い出されたらしいとか、悪い噂ばかりだった。そして、当の井倉の姿は見えないのだ。
(まったく。何をやっているのかしら? 姿を見せないからみんな、いいように悪い噂ばかりが先行しているのよ)
「ねえ、聞いた? あの井倉がギャンブルに手を出して破産したって……」
「それだけじゃないのよ。悪い女に手を出して、身包み剥がされて海に捨てられたって……」
女達の噂には歯止めがなかった。
「あなた達、いい加減にしなさい。そんな下種な話など美しくないわ」
彩香が言った。
「そうですわよね」
「もっと有意義なお話しましょ」

彩香は苛々していた。毎日、噂はエスカレートしていく。
(早く出てきて違うって否定すればいいものを……ほんとに昔っからグズでマヌケでお人よしなんだから……。悪い女に騙されたですって? 悪い女に……。自業自得よ)
彼女は心の中で毒づいた。が、反面、あの井倉にそんな大胆な真似ができる筈がない。そう信じてもいた。
「ねえ、聞いた? あの井倉が退学したって……」
突然、そんな情報が齎された。
「退学?」
彩香は一瞬耳を疑った。

――ハンス先生に合格って言ってもらえて……それがうれしくて……

(あんなに喜んでいたくせに……)
彩香には信じられなかった。が、友人は言った。
「授業料未納で強制退学させられたらしいわよ」
「強制?」
「うちの大学、お金にはシビアだって聞くものね」
と、女達が盛り上がる。
「およしなさい。所詮は貧乏人。ここにいることが場違いだったのよ」
彩香が言った。きついもの言いに一瞬、彼女達も呆気にとられているようだったが、すぐに取り繕って言った。
「そうですわね」
「所詮は不似合いだったんですわ」
「そういえば、井倉だけ浮いてましたものね」
女達は鈴のようにころころと笑った。


その日はハンスのレッスンがある日だった。が、井倉はぼんやりと空を見つめていた。歩き回って足は棒のようになり、お腹はもう何日も食べ物にありついていない。手は無意識に鍵盤を探し、指はメロディーを求めてまさぐった。
「ピアノが弾きたい……」

――あなたはC。合格です

ハンスの明るい笑顔が脳裏をかすめる。

――イクラって? おすしに乗っているあのイクラのことですか?

「ハンス先生……」
8階建てのマンションの屋上に彼はいた。そこからなら街が一望できたし、音大も見えた。
(今頃は彩香ちゃんが弾いているのかな?)
彼は彩香のピアノの音を想像した。それから、自分が弾くピアノの音も……。そして、二人で連弾する瞬間を夢見て微笑んだ。

――井倉、喉が渇いたの。飲み物を買ってきて
――何をやってるの? ドジ! とっととくるのよ
――何度言ったらわかるの? ホットじゃなくてアイスティーが飲みたいの

「彩香ちゃん……」
夕闇の中に霞んでいく記憶……。

――井倉君、僕、手伝います

(ハンス先生……)
ピアノの音が響いていた。みんながざわざわと話をしている。
(みんな、僕より上手くなる。僕一人だけが取り残されて……みんな……みんな……)
風が冷たくなっていた。最後のオレンジが闇に溶けて空は冷たい色に覆われた。そして、井倉の心も暗い闇の風に流されて行った……。


その日、ハンスは井倉が音大を辞めてしまったのだと聞いてがっかりした。
「いい子だったのに……。残念です」
それから滞りなくレッスンを終えると大学を出た。それから帰り道にある団地の公園で子供達と遊んだ。
「ハンス! 一番星が光ってるよ」
元気のいい男の子が指を指した。
「ほんとだ。大きな星だね」
ハンスが笑う。
「あれは金星よ。お父さんが教えてくれたの」
女の子が言った。
「金星? それって金色のこと?」
ハンスが訊いた。
「そう! 金曜日の金。お金の金も同じだよ」
小学生の子が得意そうに言った。
「えーっ? お金じゃないもん。お星さまはきれいだけど、お金なんかきれいじゃないじゃない」
「金曜日だって金色と違うよ。きらきらしてないもん」

小さい子達が言い合っているとお母さん達が迎えにきた。夕暮れの日はあっという間に沈んで空には星の光だけが残った。
「バイバイ、ハンス」
「また来週」
子供達が帰っていった。
「うん。またね」
ハンスもそう言って団地の敷地の公園を出た。
「金星か……」
ハンスは何気なくそちらを見た。そのすぐ下には高いマンションが並んでいる。こちらから見るとその屋上からは星に手が届きそうだった。
「行ってみよう」
彼はそちらへ向かって駆け出した。そして、屋上にいる人影を見た。
「あれ? 井倉君だ。彼も星を見に行ったのかな?」
しかし、その動きは不自然だった。彼はフェンスの外側に立っていた。
「井倉君……?」
ハンスは走った。揺らめく影に呼応してその瞳に閃光が閃く。


「井倉君……?」
ハンスが心配そうな顔をして覗いていた。
「先生……? どうして……」
井倉は慌てて半身を起こした。そこはマンションの敷地にある駐車場の脇だった。植え込みがあるので、外からは死角になっている。
「危なかったです。もう少しでいけなくなるところでした」
「いけなくって……」
井倉にはその意味がわからなかった。
「でも、大丈夫。僕、ちゃんと拾いました。だから、もう君は僕のものです」
「え? 一体何を言って……」
ハンスの目は光を帯びて星のように輝いていた。
「僕が拾ったんです」
「拾った……? それってどういう……」
井倉は高いマンションを見上げてぞっとした。
「まさか……あの……」
彼はそこを見上げたまま固まった。

「君が捨てたのでしょう? 君にとっていらないものでも、僕、欲しいです。だから、僕、持って帰ります」
ハンスが言った。
「持って帰るって……あの……」
井倉は焦った。力が出なかった。
「それとも、君、帰るところありますか?」
ハンスが訊いた。井倉は静かに首を横に振るしかなかった。
「なら、決まりです。さあ、行きましょう」
ハンスが手を差し伸べてきた。が、井倉は動けない。
「どうしましたか?」
「お腹が減って……」
井倉は自分でも何を答えているんだろうと思ったが、そう言うしかなかった。空腹だったのは事実なのだ。ハンスは頷いて言った。
「わかりました。では、先に食事をしましょう」
「食事って言われてもその……」
井倉は面食らっていた。
「僕、いいお店知ってます。すごく美味しいです。だから、そこにしましょう」
有無を言わさずハンスは彼をそこへ連れて行った。


そこはファミリーレストランだった。席に着くと彼はウエイトレスに言った。
「お子様ランチ2つお願いします」
「お子様ランチ……」
井倉はまだ夢の中にいるのだろうかと自分の腿をつねってみた。痛みは感じなかった。
(やっぱりこれは夢……?)

――僕が拾いました。だから、君は僕のものです

ハンスがそんなことを言うなんておかしい。それに、今、こうして二人でテーブルにつき、お子様ランチを眺めていることも……。
(きっと長い夢を見ているんだ。でなければ、落ちたショックで頭を打ったのかもしれない……)
何だかふわふわとした音のBGMも子供達の騒がしい声もそして、今、目の前にいるハンスも全部、自分自身が作り出した幻なのではないだろうか。そう思った。ここ2週間ばかりずっとろくな食事もとらず、睡眠さえまともにとれなかった。その反動だ。確かに、自分はあのビルの屋上に上がった。しかし、そこから先の記憶は曖昧だった。音大が見えた。ピアノや彩香やハンスのことを考えた。それから空に星が出て美しいと思って眺めた。それをもっと近くに行って眺めようと……フェンスを超えた……。そこまでは覚えている。しかし……。

(僕は何をやろうとしていたんだろう? 一体何を……もうどうでもいいと思ってた。恋も夢も何もなくして人生なんてもうどうでもいいと……)
彼は俯いて銀色に光るスプーンを見た。そこに歪んだ自分の顔が映っている。
「井倉君、プリンは好きじゃないですか?」
ハンスが訊いた。
「あ、いえ。そんなことは……」
「なら、食べてください。美味しいです。あ、井倉君のはアメリカですね。僕のはイギリスです」
ハンスがうれしそうに指摘した。最初はよく意味がわからなかった。が、それはオムレツに立っている旗のことなのだとわかった。

(もしかして、先生は僕を勇気づけようとしてこんなことを……)
だんだん頭の中がはっきりしてくると井倉は少し冷静に考えることができた。
(でも……)
スプーンで掬った一口を口に運ぶ前に涙が落ちた。
(どうしたらいいのかわからない……)
「井倉君、僕が食べさせてあげましょうか?」
ハンスが心配そうな顔をした。
「いいえ。いいえ。一人で食べられます」
そう言ったものの、何度もこぼしては掬い、こぼしてはまた掬うことを繰り返す。
「井倉君……」
先に食べ終わったハンスが彼の脇に来て、そっと肩に手を置いた。その手の温もりにまた涙する井倉……。

「僕、大学やめたんです」
ぽそりと言った。
「聞いてます」
「けど、本当はやめたくなんかなかったんです。ずっと先生のレッスンが受けたかった……」
彼は子供のようにぽろぽろと涙を流した。
「受けられますよ。ずっと……」
ハンスが言った。
「でも、僕……お金が……。住むところもないし、ピアノも……」
井倉は行ってしまった夢を掴もうとしているかのように手を伸ばした……。その手をぎゅっと掴んでハンスは言った。
「大丈夫。君は大丈夫。黙って僕に付いてくればいい。僕を信じて付いてくるのです」
「先生……」
井倉は感動のあまり全身が震えた。
(彼は天使だ……)
そう思った。次の瞬間。その天使が言った。
「だから、おまけのおもちゃ、僕がもらってもいいですか?」